
正しく分かりやすいことを善、
ってほとんどの人が考えるよね。
合理的に考えること、つまりある意味で予定調和な選択をし続けた先を想像してみて。
物事を判断する時に費用対効果がいいかどうか、優れてるかどうか、損か得か、肩書きがどうか、評判はどうか、時短かどうか、みたいな。
多分さ、
日常的に物事を合理的に考えてるよね。
分かる。
そうやって導き出す答え、
おそらく社会的には「正しい」とは思うのよ。
けど人間正しさで生きてないじゃん?
「自分が欲しいか」
「自分がやりたいか」
「自分がどう感じるか」
自分というフィルターを通さずに他人の物差しを通して見る物事って一見正しいけど無味無臭やろ。
5年後10年後に心に残ってる?
その時の感情思い出せる?
正しいか、合理的か、そんなことは機械に任せちゃって。大事なのはお前がどう思うかでしょ。
想像してみて欲しいんだけどさ、その時の感覚が残ってて情景も浮かぶような思い出って「合理的な選択から外れる」時じゃない?それって意味があるとか役に立つとか全然関係なくて非合理で無駄だったりしない?
「理」で見るのが当たり前になってると「情報」としてしか残らないのよ。
人生の楽しい瞬間って意外と不便だったり不条理の中にそのエッセンスが詰まってて。結果的にどう行き着くか分からなくても感情の振れ幅が後々振り返った時に心に残ってるよね。
💩みたいな経験でも。

今ってさ、便利で溢れてる。けど、それが幸福かどうかとは関係ないどころか逆に削いでるまである。
精神的な豊かさを追い求める動きを気取った言葉でラッピングした言い回しが芸術だったりアートだったりするけど作品が本質でもない。

例えば絵なんかさ、機能的価値ないじゃん?
絵、というかアートみたいな概念って鏡に似てると思ってて。合理的に捉える感覚が強ければ「役に立たない何か」でしかないけど、そういった「理」を無視した外側に心惹かれる引力があると思わない?
生きる意味というか、
人生の醍醐味も同じよ。
効率的に要領良く生きる、みたいなことが人生の目的じゃないでしょ?他人から見て無意味で無駄だとしても「いい」と思うならそれが正解よ。

人生は暇つぶし、
とはよく言ったものじゃない?
突き詰めたら人が興味を持つのって人から滲み出た産物というか。取り除きたくなるようなダメな部分や汚いところも含めてね!
例えば誰でも書けそうならくがき。
道具が無ければその辺にあるものも使うし、
やり直した痕跡や雑味も活かす。
目に見える美しさ、
洗練された技術、
そこに至る過程含めて手段に過ぎないのよ。
どっちがいい?
当たり前の判断を下すか、好奇心や興味を持って変化を刻んでいくか。
こういう話を聞かない?人の一生で。
0歳から20歳までの体感速度と、
21歳から80歳までの体感速度は同じ、って。
それって同じ日々を繰り返していくからで。言うなれば「わかる」ことは無味無臭で鮮度も短い。記憶にも残らない。
だからこそ普段しない選択、言葉、行動、が価値を纏うというか。
そういうのが生きる意味というか熱に繋がっていくと思ってて。正しさじゃない。直感的な嗅覚というかセンスというか、そういった選択が例え理不尽で不合理で掴みどころのない「分からない」ことだとしても生きる糧になったらラッキー、みたいな?

得体の知れないことにも近づける好奇心が縁起や運も引き寄せると思わない?
出会いはガチャ券みたいなもので。
引く回数が多ければ最悪を引き当てることもあるけど新しい出会いから面白いと思える出来事の総数が増えるので人生通して結果プラス、みたいな?
ここまで読んだってことは一定興味があると思いつつ「お?」って思ったならその好奇心を満たせるかもよ。生業は別に役には立たないけど琴線に触れることを追求していく、みたいな?
何してるか特に表立って出してないけどそのほうが先入観なく見れるでしょ?
続きを見てもいいし、
このまま終わってもいい🤫
→見る?